感覚の違い
2003年12月7日 ●Boston●日常徒然雪模様。。。
今日(土)、日曜日にいっしょにサッカーをしている
ポスドクさんの結婚式があって、
その披露宴にご招待していただいているので、
それに参加しますが、、、すごい日和の式。
結婚式らしく、純白の街。
---
つづき
日本の大学院生は、
研究の的を早めに絞るが、
アメリカの大学院生は
修士の学生については、特に的を絞らないこともあるし、
博士の学生でも2年たってからやっとという様。
この違いは、日本の卒業生は
どうしても視野が狭くなるという問題点を生む。
アメリカの学生は論文の数は少ないかもしれないが、
数十年の長さで考えると、応用が利くし研究の幅も広がる。
そして人的流動性に関しても、融通が利く。
だが、日本の学会などに出ている友達と連絡をとって、
アメリカの大学院の講義を受けて感じたこと。
アメリカの講義は、その学問の幅を広げる意義があり、
研究に対する視野を広げることに意味があると思っていたが、
講義を受ける側の学生が、
講義は講義のためでしかないものと捉えている気がする。
まだ1つの研究に従事したことのない、
最新論文を追跡していくことの重要性をまだ十分把握していない、
どれだけ基礎を固めていなくてはいけないかわかっていない学生が
講義を受けているので、
僕が抱いていた、アメリカ大学院の講義の意義というのは
あまり役に立っていない気がする。
講義を受けているにしても、
研究に応用することを狙って受けているわけではないのだ。
単位はとればいい。
そういう感じ。
皆、もったいないことをしている。
日本の大学院の学生は、
講義に対してどういう視点をもっているのだろう。
彼らは研究に従事することで、基礎を応用に繋げる、
オリジナルの研究に繋げることの重要性を把握しているはず。
だから、講義がその研究への姿勢に沿っていれば、
講義の価値はかなり高くなると思う。
ただ講義と研究とを両立する難はあるけれど。
日本の大学院生は、
講義を軽んじている部分があると思う。
だから視野を狭めるという問題が生まれる。
自分の研究に対して、広い視点から考えられるように
まわりからのサポート(講義)によって、
広い基盤を固めておかなくてはいけないと思う。
---
学生の感覚の違いを生むのは、
もちろん、教官の感覚の違いもある。
大学院生が受ける講義が
どれだけ研究に役立つかっていうことを頭に入れて
講義を運んでいかなくてはいけない。
日本の学生は、研究を重視しているのだが、
教官はそれに対して、啓発的にならなくてはいけない気がする。
講義はアプローチ次第では、とっても役に立つはずなのだが、
「講義はとりあえず受けておけばいいよ」
っていう感じで、事が進められてしまうのでは?
そういう問題もあると思う。
アメリカでもそれはもちろんある。
なぜその講義が必要とされているのかっていう点が
講義のインストラクターにはっきりとわかってもらえていないままに
講義が進められているなって思う事がある。
もったいないと思う。
講義は滞りなく進んでいるものの
学生と教官とが、重要な点を見失っている場合が
なにやらありそうで、それはもったいないこと。
---
話があっちこっち飛んでしまった。
日米の感覚の違いはあるが、
僕が述べたい感覚の違いは、
僕と、チームメイトとの感覚の違い。
彼らは
「講義は受けるもの」
僕は
「講義は自分の研究につなげなくては意味の無いもの」
僕は学んだことの応用にまで話を進めたい。
でも、講義をパスするには、
もちろん、そんなこと必要ない。
だから、うんざりされるのだ。
僕は躍起になっているわけではない。
学問そのものがおもしろくって応用まで発展させられると嬉しい。
だが、彼らは「それは必要ない」という。
呆れたもんだ。楽しんでない。
今日(土)、日曜日にいっしょにサッカーをしている
ポスドクさんの結婚式があって、
その披露宴にご招待していただいているので、
それに参加しますが、、、すごい日和の式。
結婚式らしく、純白の街。
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つづき
日本の大学院生は、
研究の的を早めに絞るが、
アメリカの大学院生は
修士の学生については、特に的を絞らないこともあるし、
博士の学生でも2年たってからやっとという様。
この違いは、日本の卒業生は
どうしても視野が狭くなるという問題点を生む。
アメリカの学生は論文の数は少ないかもしれないが、
数十年の長さで考えると、応用が利くし研究の幅も広がる。
そして人的流動性に関しても、融通が利く。
だが、日本の学会などに出ている友達と連絡をとって、
アメリカの大学院の講義を受けて感じたこと。
アメリカの講義は、その学問の幅を広げる意義があり、
研究に対する視野を広げることに意味があると思っていたが、
講義を受ける側の学生が、
講義は講義のためでしかないものと捉えている気がする。
まだ1つの研究に従事したことのない、
最新論文を追跡していくことの重要性をまだ十分把握していない、
どれだけ基礎を固めていなくてはいけないかわかっていない学生が
講義を受けているので、
僕が抱いていた、アメリカ大学院の講義の意義というのは
あまり役に立っていない気がする。
講義を受けているにしても、
研究に応用することを狙って受けているわけではないのだ。
単位はとればいい。
そういう感じ。
皆、もったいないことをしている。
日本の大学院の学生は、
講義に対してどういう視点をもっているのだろう。
彼らは研究に従事することで、基礎を応用に繋げる、
オリジナルの研究に繋げることの重要性を把握しているはず。
だから、講義がその研究への姿勢に沿っていれば、
講義の価値はかなり高くなると思う。
ただ講義と研究とを両立する難はあるけれど。
日本の大学院生は、
講義を軽んじている部分があると思う。
だから視野を狭めるという問題が生まれる。
自分の研究に対して、広い視点から考えられるように
まわりからのサポート(講義)によって、
広い基盤を固めておかなくてはいけないと思う。
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学生の感覚の違いを生むのは、
もちろん、教官の感覚の違いもある。
大学院生が受ける講義が
どれだけ研究に役立つかっていうことを頭に入れて
講義を運んでいかなくてはいけない。
日本の学生は、研究を重視しているのだが、
教官はそれに対して、啓発的にならなくてはいけない気がする。
講義はアプローチ次第では、とっても役に立つはずなのだが、
「講義はとりあえず受けておけばいいよ」
っていう感じで、事が進められてしまうのでは?
そういう問題もあると思う。
アメリカでもそれはもちろんある。
なぜその講義が必要とされているのかっていう点が
講義のインストラクターにはっきりとわかってもらえていないままに
講義が進められているなって思う事がある。
もったいないと思う。
講義は滞りなく進んでいるものの
学生と教官とが、重要な点を見失っている場合が
なにやらありそうで、それはもったいないこと。
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話があっちこっち飛んでしまった。
日米の感覚の違いはあるが、
僕が述べたい感覚の違いは、
僕と、チームメイトとの感覚の違い。
彼らは
「講義は受けるもの」
僕は
「講義は自分の研究につなげなくては意味の無いもの」
僕は学んだことの応用にまで話を進めたい。
でも、講義をパスするには、
もちろん、そんなこと必要ない。
だから、うんざりされるのだ。
僕は躍起になっているわけではない。
学問そのものがおもしろくって応用まで発展させられると嬉しい。
だが、彼らは「それは必要ない」という。
呆れたもんだ。楽しんでない。
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