「本当に英語なの?」
2003年12月6日 ●Boston●学術(語学・交流)自分が以前の大学院のプログラムで課された課題というのは、
さすがにアメリカならではの量で、今、思い出しても無理があるなっていう量だった。
はっきり言って、
今のPh.D課程の1年目で受けている講義の比ではない。
視点を変えると、同じ講義に参加している、
大学院が1年目の学生(特に修士)と比べて
学術論文を読む、解釈する、批判することについての
慣れの程度がはっきり言って違う。
チームで疫学に関する課題を提出する機会があった。
メンバーは、初めて大学院に入った人、
初めて疫学を勉強する人、
そして大学院に入る前に、仕事をしている人。
他の人より疫学に関する論文を読み慣れている自分は
提出する課題のポイントを整理し、ドラフトを作る役をかった。
後の文法などの訂正は、英語が母国語の人がやるべきなので、
自分が最大限貢献できるのは、
読んで解釈する段階であるからそういう選択を選んだのだった。
ドラフトを書いて皆にeメールで配って、
文法的な部分を訂正したものを、
ミーティングの機会に持ってきてもらったのだが、
文法的な訂正が施された部分は、
自分の予想を越えてたくさんあったのだ。
ところが訂正された文を読んでみると、
自分が書いたドラフトで、
論文を客観的に批評している文章の大事な意味が
文法を訂正することで、捻じ曲げられてしまったのだ。
自分が意図した文脈が
文法を見たメンバーに伝わることなく、
「意味が通らない」ということで
改変させられてしまったのだった。
そしてミーティングでわかったことだが、
疫学的な論文をどう批判的な目で読んでいくか、
どういう点に注意して読んでいくか、
他のメンバーは全くわかっていなかった。
それは講義で学んだことなのだが、
実際に投稿された論文に目を通すことに慣れていないようで、
重要なポイントに目が向いていない様子だった。
その経験で、自分が書いたドラフトの
英語を訂正したというのだった。
うかつだった。
自分の英語にももちろん問題はあるのだろうが、
その英語の問題を改良するためには、
文が何を言っているか把握しないとできない。
できないはずなのに、やられてしまった。
どこにそんな自信があるのかわからないが、
文を読んで理解できないとき、
?文の英語のせい
?理解力が無いせい
の2つがあげられるのだが、
彼らにとっての問題は?なのだった。
?の問題が存在することすら、彼らにはない印象だった。
失礼なもんである。ミーティングでは苦労した。
自分が意図した点を、伝えなくてはいけないのだ。
全員に。
「この文はもともと、
こういう文だったのだが、
こういう意図で書いたのだ」
という風に、説明するわけ。
「あぁ、そうだったの!」
という反応が得られるわけだが、
彼らにはもともと無い
(講義で学んだことも根付いていない)
アイデアがほとんどで、苦労を課せられた。
何か前提となる視点があればいいのだが、
疫学という学問そのものに通じていないために、
どういう視点でものを考えればいいか、
何かずれているのである。
ドラフトはミーティングの2日前に皆に配ったのだが、
その点で、統計学的な考察についても
自分の意見を込めることができた。
講義で学んだ内容を応用して考えれば思いつく意見で、
自分でもけっこう鋭い感覚を文章にできたなと思った。
その意見は僕にとっても、本を開いたり論文を読んだりして
理解を深めた上でやっと文章にできたのものなのだが、
他のメンバーに理解しにくいのではないかという懸念があったので、
その応用した考えが実際に論文になっているものを
皆にメールで配布した。
「難しいのだけど、この論文の○○のところを読めばわかる」
と。
しかし、彼らは読んでこなかった。
自分にも説明するのは難しい内容で、
説明するのが面倒から、論文をメールで配ったのだが、
読まれてない。。。
はじめっから自分の理解をこえる内容については
理解しようという努力を全くしようとしない印象を抱いて、
なんとなくの差を感じた。
Ph.Dでプロを目指そうという自分と、
修士課程という講義をこなせばよいという立場のメンバー、
そして大学院に入りたいので出願中だというメンバーと。
理解できない文章を
僕の英語のせいにするのは良いが、
自分の理解力のせいだという疑いを
一切もっていない態度にははっきりいって疑問だった。
そして、理解できそうにない内容には触れようとしないことは
学問に従事している人の姿勢ではない。
ミーティングの暮れには、
「Bow(仮名)がそう言っているんだからきっと正しいんだよ」
という理解もせずに、しょうがないから了承してやるよくらいの姿勢。
もうなんかね。。。
まだ1個、グループでこなす課題があるので、
それはなんとか、時間をかけて、、、十分に、、、
がんばる。
さすがにアメリカならではの量で、今、思い出しても無理があるなっていう量だった。
はっきり言って、
今のPh.D課程の1年目で受けている講義の比ではない。
視点を変えると、同じ講義に参加している、
大学院が1年目の学生(特に修士)と比べて
学術論文を読む、解釈する、批判することについての
慣れの程度がはっきり言って違う。
チームで疫学に関する課題を提出する機会があった。
メンバーは、初めて大学院に入った人、
初めて疫学を勉強する人、
そして大学院に入る前に、仕事をしている人。
他の人より疫学に関する論文を読み慣れている自分は
提出する課題のポイントを整理し、ドラフトを作る役をかった。
後の文法などの訂正は、英語が母国語の人がやるべきなので、
自分が最大限貢献できるのは、
読んで解釈する段階であるからそういう選択を選んだのだった。
ドラフトを書いて皆にeメールで配って、
文法的な部分を訂正したものを、
ミーティングの機会に持ってきてもらったのだが、
文法的な訂正が施された部分は、
自分の予想を越えてたくさんあったのだ。
ところが訂正された文を読んでみると、
自分が書いたドラフトで、
論文を客観的に批評している文章の大事な意味が
文法を訂正することで、捻じ曲げられてしまったのだ。
自分が意図した文脈が
文法を見たメンバーに伝わることなく、
「意味が通らない」ということで
改変させられてしまったのだった。
そしてミーティングでわかったことだが、
疫学的な論文をどう批判的な目で読んでいくか、
どういう点に注意して読んでいくか、
他のメンバーは全くわかっていなかった。
それは講義で学んだことなのだが、
実際に投稿された論文に目を通すことに慣れていないようで、
重要なポイントに目が向いていない様子だった。
その経験で、自分が書いたドラフトの
英語を訂正したというのだった。
うかつだった。
自分の英語にももちろん問題はあるのだろうが、
その英語の問題を改良するためには、
文が何を言っているか把握しないとできない。
できないはずなのに、やられてしまった。
どこにそんな自信があるのかわからないが、
文を読んで理解できないとき、
?文の英語のせい
?理解力が無いせい
の2つがあげられるのだが、
彼らにとっての問題は?なのだった。
?の問題が存在することすら、彼らにはない印象だった。
失礼なもんである。ミーティングでは苦労した。
自分が意図した点を、伝えなくてはいけないのだ。
全員に。
「この文はもともと、
こういう文だったのだが、
こういう意図で書いたのだ」
という風に、説明するわけ。
「あぁ、そうだったの!」
という反応が得られるわけだが、
彼らにはもともと無い
(講義で学んだことも根付いていない)
アイデアがほとんどで、苦労を課せられた。
何か前提となる視点があればいいのだが、
疫学という学問そのものに通じていないために、
どういう視点でものを考えればいいか、
何かずれているのである。
ドラフトはミーティングの2日前に皆に配ったのだが、
その点で、統計学的な考察についても
自分の意見を込めることができた。
講義で学んだ内容を応用して考えれば思いつく意見で、
自分でもけっこう鋭い感覚を文章にできたなと思った。
その意見は僕にとっても、本を開いたり論文を読んだりして
理解を深めた上でやっと文章にできたのものなのだが、
他のメンバーに理解しにくいのではないかという懸念があったので、
その応用した考えが実際に論文になっているものを
皆にメールで配布した。
「難しいのだけど、この論文の○○のところを読めばわかる」
と。
しかし、彼らは読んでこなかった。
自分にも説明するのは難しい内容で、
説明するのが面倒から、論文をメールで配ったのだが、
読まれてない。。。
はじめっから自分の理解をこえる内容については
理解しようという努力を全くしようとしない印象を抱いて、
なんとなくの差を感じた。
Ph.Dでプロを目指そうという自分と、
修士課程という講義をこなせばよいという立場のメンバー、
そして大学院に入りたいので出願中だというメンバーと。
理解できない文章を
僕の英語のせいにするのは良いが、
自分の理解力のせいだという疑いを
一切もっていない態度にははっきりいって疑問だった。
そして、理解できそうにない内容には触れようとしないことは
学問に従事している人の姿勢ではない。
ミーティングの暮れには、
「Bow(仮名)がそう言っているんだからきっと正しいんだよ」
という理解もせずに、しょうがないから了承してやるよくらいの姿勢。
もうなんかね。。。
まだ1個、グループでこなす課題があるので、
それはなんとか、時間をかけて、、、十分に、、、
がんばる。
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