人として上を向く。
2003年8月17日 ●Boston●日常徒然エクセル慣れてくる!
修士論文の提出日は実は15日なのだが無視させていただいた。
日本では考えられないのでは?
−−−
ところで以前、
外的因子、内的因子ということを書いたがちょっと整理。
問題に直面したときの原因には、
外的な因子(環境・状況)と内的な因子(自分自身の努力や能力)に
分けられると思うのだけど、
どっちにどれだけの原因を帰属するかは人によって違うと思うし、
性格が出てくる問題だと思う。
僕がここ10年の間に、1年に1回ずつ問題に直面し、
全ての問題は、程度の違いはあるにせよ、
ある程度、解決できてきたと仮定する。
で、その問題に直面して、原因を叩き潰すプロセスを経るのだが、
?外的な原因のみに着目して解決してきた。
?内的な原因のみに着目して解決してきた。
と2つの場合が考えられる。
ここで、どちらのケースがその10年で
人間として成長できるかと考えるとそれは?。
問題の原因には、外的と内的とがあるのだが、
外的因子は、千差万別に変わりうる。
人の成長という長い目で見れば、関わる人やもの、
向かい合う問題の質などは大きく変わる。
だが内的因子は、いつだって自分の中。
多少、タスクによって要求される内容は違っても、
オーバーラップしている内容があると思う。
内的な問題があって、それが精神的な類、姿勢などであるなら、
どんな問題に直面したとしても、内的な問題は変わらないと言える。
10年間の内の10個の問題の原因を仮に整理すると
1 自分&外的因子1
2 自分&外的因子2
3 自分&外的因子3
4 自分&外的因子4
5 自分&外的因子5
6 自分&外的因子6
7 自分&外的因子7
8 自分&外的因子8
9 自分&外的因子9
10 自分&外的因子10
というわけ。
問題はいつだって、自分と何か。
?のようなアプローチを1年目にしたとする。
2年目の問題の原因のうちの内面的因子はある程度、
解決されていることが期待できる。
さらに2年目においても、内面的因子を潰しておけば、
3年目の問題の原因のうちの内面的因子はある程度、、、
?のアプローチでは、せっかく原因を潰しても、
その解決して残ったものは次に生かされない。
(生かされるものは、「外的因子」に目を向ける姿勢=「内的因子」)
自分の中の問題の解決は蓄積され、
今後の問題の解決に生かされる。
自分の外の原因の解決はその問題が解決されると同時に消える。
問題に向かい合ってしまった原因として先見性の無さ(内的因子)がある。
極端な話、その因子をとある問題の解決時に、すっかり解消できたら、
その後一切、問題に向かい合うことすらないことになる。
すごい。
(先見性だけが先走ると、
「問題から逃げる」ってことになるかな?)
だから、他人や環境のせいにする人っていうのは、
問題が過ぎ去っても、自身の中に問題を解決する秘訣が残らないから、
次の問題が巡ってきたときも、
またゼロから対応しなくてはいけないんだよね。
経験。
長いスパンが必要なことだと思う。
しかし、社会は黙っていない。
内面の因子に目を向けて来なかった人は
どんどん複雑な環境を用意してくれる社会(小中高大→→)に
ついていけるはずはないのでは?
で、問題に直面したときには、
やはり、外の因子に原因を帰属しようと躍起になるのだ。
どうにもならないので、逃げるという手段に走る人もいる。
でも、どこかでまた問題に直面する。
ぐるぐるまわる。
自分自身に目を向けることはつらいかもしれないけれど、
確実に階段を上る事ができるんじゃないかな?
なんか、整理されたかわからないけれど、
文にできたということで自己満足。
修士論文の提出日は実は15日なのだが無視させていただいた。
日本では考えられないのでは?
−−−
ところで以前、
外的因子、内的因子ということを書いたがちょっと整理。
問題に直面したときの原因には、
外的な因子(環境・状況)と内的な因子(自分自身の努力や能力)に
分けられると思うのだけど、
どっちにどれだけの原因を帰属するかは人によって違うと思うし、
性格が出てくる問題だと思う。
僕がここ10年の間に、1年に1回ずつ問題に直面し、
全ての問題は、程度の違いはあるにせよ、
ある程度、解決できてきたと仮定する。
で、その問題に直面して、原因を叩き潰すプロセスを経るのだが、
?外的な原因のみに着目して解決してきた。
?内的な原因のみに着目して解決してきた。
と2つの場合が考えられる。
ここで、どちらのケースがその10年で
人間として成長できるかと考えるとそれは?。
問題の原因には、外的と内的とがあるのだが、
外的因子は、千差万別に変わりうる。
人の成長という長い目で見れば、関わる人やもの、
向かい合う問題の質などは大きく変わる。
だが内的因子は、いつだって自分の中。
多少、タスクによって要求される内容は違っても、
オーバーラップしている内容があると思う。
内的な問題があって、それが精神的な類、姿勢などであるなら、
どんな問題に直面したとしても、内的な問題は変わらないと言える。
10年間の内の10個の問題の原因を仮に整理すると
1 自分&外的因子1
2 自分&外的因子2
3 自分&外的因子3
4 自分&外的因子4
5 自分&外的因子5
6 自分&外的因子6
7 自分&外的因子7
8 自分&外的因子8
9 自分&外的因子9
10 自分&外的因子10
というわけ。
問題はいつだって、自分と何か。
?のようなアプローチを1年目にしたとする。
2年目の問題の原因のうちの内面的因子はある程度、
解決されていることが期待できる。
さらに2年目においても、内面的因子を潰しておけば、
3年目の問題の原因のうちの内面的因子はある程度、、、
?のアプローチでは、せっかく原因を潰しても、
その解決して残ったものは次に生かされない。
(生かされるものは、「外的因子」に目を向ける姿勢=「内的因子」)
自分の中の問題の解決は蓄積され、
今後の問題の解決に生かされる。
自分の外の原因の解決はその問題が解決されると同時に消える。
問題に向かい合ってしまった原因として先見性の無さ(内的因子)がある。
極端な話、その因子をとある問題の解決時に、すっかり解消できたら、
その後一切、問題に向かい合うことすらないことになる。
すごい。
(先見性だけが先走ると、
「問題から逃げる」ってことになるかな?)
だから、他人や環境のせいにする人っていうのは、
問題が過ぎ去っても、自身の中に問題を解決する秘訣が残らないから、
次の問題が巡ってきたときも、
またゼロから対応しなくてはいけないんだよね。
経験。
長いスパンが必要なことだと思う。
しかし、社会は黙っていない。
内面の因子に目を向けて来なかった人は
どんどん複雑な環境を用意してくれる社会(小中高大→→)に
ついていけるはずはないのでは?
で、問題に直面したときには、
やはり、外の因子に原因を帰属しようと躍起になるのだ。
どうにもならないので、逃げるという手段に走る人もいる。
でも、どこかでまた問題に直面する。
ぐるぐるまわる。
自分自身に目を向けることはつらいかもしれないけれど、
確実に階段を上る事ができるんじゃないかな?
なんか、整理されたかわからないけれど、
文にできたということで自己満足。
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