能動態か受動態か
2006年10月5日 ●Boston●学術(語学・交流)英語の文章を書く際、
この疑問が頭によぎるときがある。
種々の本を読んできたのだが、
さっき案を頭の中で整理したので書いてみる。
・受動態は責任回避的である
これは以前に紹介したLeggettという学者が述べていたこと。
1.「(私が)AをBと考える」
というのと、
2.「AはBと考えられる」
というのと、2の受動態の文章が責任回避的だというのだ。
日本人としては読者に判断を委ねるという考えといえるが、
英語、特に科学論文では許されないと彼は言っている。
日本人の感覚としては
「私は」「私が思うのは」と、
自分を強調しすぎるのは、
「あなたの考えはどうでもいいが、私はこう考えるんだ」
と言っているようで、なんだか気が引ける。
しかし英語ではあまりふさわしくないようだ。
ところで、
Leggettは2003年のノーベル物理学賞受賞者です。
・単語が長くなる
論文などには単語数が限られる。
受動態だとどうしても単語数が多くなるのでは?
・主語と動詞を簡潔に並べられる方を選ぶ
日本人が英語を読むときでもそうだと思うが、
英語圏の人にとっても、主語が長すぎると読みづらいようだ。
従って主語が長くなってしまう場合には、
なんとか工夫して短くし「主語+動詞」の関係を
はやく読者に伝えるようにしなくてはならない。
その1つの案が受動態かもしれない。
・理論の流れを大切にする
これがもっとも重要のように思っている。
次の比較をさっき思いついたので
書きたいと思った次第である。
例文1)
A caused B. B increased C. C suppressed D.
Finally, D vanished.
例文2)
B was caused by A. C increased as B happened. D was suppressed by C. Then, D vanished.
例文1と2は、まったく話の流れがいっしょである。
しかし、例文2の方は
まったく話の流れがばらばらのように捉えられると思う。
理由は簡単で、AからDまでの流れを例文1は
文法の構成で明確にしている。
AがBを、BがCを、CがDを、そしてDが・・・と。
例文2は流れていない。
例文3)
D vanished after being suppressed by C. C increased as B happened. B appeared in response to A’s action.
例文3は強引にDから始めたもの。
これは時間の流れが逆行しているようだが、なかなか読める。
能動態か受動態かどちらかというのは、
何が主語となって、前の文を受け、
話を先に進めるのかという、
文の流れについて決定的な役割に関することなのだ。
これまで友達の英語を見てきたこともあるし、
自分の下手な英語に読み返すごとにため息が出ることが多い。
そもそも、日本人は1文1文に力を入れるばっかりに、
文同士のつながりに対する配慮が欠けてしまうように思う。
1文を作る文法に力を注いできた結果のように思う。
1文に着目して、どう構文を作ればいいか・・・
と考えるのが常なのだけれども、
他の文章とのつながりを考慮しなくてはいけない。
1つの文ごと考えるのは、もしかしたら非効率かもしれない。
こうして整理するのは、英語を書く際の自信にもなっていいかも。
この疑問が頭によぎるときがある。
種々の本を読んできたのだが、
さっき案を頭の中で整理したので書いてみる。
・受動態は責任回避的である
これは以前に紹介したLeggettという学者が述べていたこと。
1.「(私が)AをBと考える」
というのと、
2.「AはBと考えられる」
というのと、2の受動態の文章が責任回避的だというのだ。
日本人としては読者に判断を委ねるという考えといえるが、
英語、特に科学論文では許されないと彼は言っている。
日本人の感覚としては
「私は」「私が思うのは」と、
自分を強調しすぎるのは、
「あなたの考えはどうでもいいが、私はこう考えるんだ」
と言っているようで、なんだか気が引ける。
しかし英語ではあまりふさわしくないようだ。
ところで、
Leggettは2003年のノーベル物理学賞受賞者です。
・単語が長くなる
論文などには単語数が限られる。
受動態だとどうしても単語数が多くなるのでは?
・主語と動詞を簡潔に並べられる方を選ぶ
日本人が英語を読むときでもそうだと思うが、
英語圏の人にとっても、主語が長すぎると読みづらいようだ。
従って主語が長くなってしまう場合には、
なんとか工夫して短くし「主語+動詞」の関係を
はやく読者に伝えるようにしなくてはならない。
その1つの案が受動態かもしれない。
・理論の流れを大切にする
これがもっとも重要のように思っている。
次の比較をさっき思いついたので
書きたいと思った次第である。
例文1)
A caused B. B increased C. C suppressed D.
Finally, D vanished.
例文2)
B was caused by A. C increased as B happened. D was suppressed by C. Then, D vanished.
例文1と2は、まったく話の流れがいっしょである。
しかし、例文2の方は
まったく話の流れがばらばらのように捉えられると思う。
理由は簡単で、AからDまでの流れを例文1は
文法の構成で明確にしている。
AがBを、BがCを、CがDを、そしてDが・・・と。
例文2は流れていない。
例文3)
D vanished after being suppressed by C. C increased as B happened. B appeared in response to A’s action.
例文3は強引にDから始めたもの。
これは時間の流れが逆行しているようだが、なかなか読める。
能動態か受動態かどちらかというのは、
何が主語となって、前の文を受け、
話を先に進めるのかという、
文の流れについて決定的な役割に関することなのだ。
これまで友達の英語を見てきたこともあるし、
自分の下手な英語に読み返すごとにため息が出ることが多い。
そもそも、日本人は1文1文に力を入れるばっかりに、
文同士のつながりに対する配慮が欠けてしまうように思う。
1文を作る文法に力を注いできた結果のように思う。
1文に着目して、どう構文を作ればいいか・・・
と考えるのが常なのだけれども、
他の文章とのつながりを考慮しなくてはいけない。
1つの文ごと考えるのは、もしかしたら非効率かもしれない。
こうして整理するのは、英語を書く際の自信にもなっていいかも。
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