英語の文章を書く際、
この疑問が頭によぎるときがある。
種々の本を読んできたのだが、
さっき案を頭の中で整理したので書いてみる。

・受動態は責任回避的である
 これは以前に紹介したLeggettという学者が述べていたこと。
1.「(私が)AをBと考える」
というのと、
2.「AはBと考えられる」
というのと、2の受動態の文章が責任回避的だというのだ。
日本人としては読者に判断を委ねるという考えといえるが、
英語、特に科学論文では許されないと彼は言っている。

日本人の感覚としては
「私は」「私が思うのは」と、
自分を強調しすぎるのは、
「あなたの考えはどうでもいいが、私はこう考えるんだ」
と言っているようで、なんだか気が引ける。
しかし英語ではあまりふさわしくないようだ。

ところで、
Leggettは2003年のノーベル物理学賞受賞者です。

・単語が長くなる
 論文などには単語数が限られる。
受動態だとどうしても単語数が多くなるのでは?

・主語と動詞を簡潔に並べられる方を選ぶ
 日本人が英語を読むときでもそうだと思うが、
英語圏の人にとっても、主語が長すぎると読みづらいようだ。
従って主語が長くなってしまう場合には、
なんとか工夫して短くし「主語+動詞」の関係を
はやく読者に伝えるようにしなくてはならない。
その1つの案が受動態かもしれない。

・理論の流れを大切にする
 これがもっとも重要のように思っている。
次の比較をさっき思いついたので
書きたいと思った次第である。

例文1)
A caused B. B increased C. C suppressed D.
Finally, D vanished.

例文2)
B was caused by A. C increased as B happened. D was suppressed by C. Then, D vanished.

例文1と2は、まったく話の流れがいっしょである。
しかし、例文2の方は
まったく話の流れがばらばらのように捉えられると思う。
理由は簡単で、AからDまでの流れを例文1は
文法の構成で明確にしている。
AがBを、BがCを、CがDを、そしてDが・・・と。
例文2は流れていない。

例文3)
D vanished after being suppressed by C. C increased as B happened. B appeared in response to A’s action.

例文3は強引にDから始めたもの。
これは時間の流れが逆行しているようだが、なかなか読める。

能動態か受動態かどちらかというのは、
何が主語となって、前の文を受け、
話を先に進めるのかという、
文の流れについて決定的な役割に関することなのだ。

これまで友達の英語を見てきたこともあるし、
自分の下手な英語に読み返すごとにため息が出ることが多い。
そもそも、日本人は1文1文に力を入れるばっかりに、
文同士のつながりに対する配慮が欠けてしまうように思う。
1文を作る文法に力を注いできた結果のように思う。

1文に着目して、どう構文を作ればいいか・・・
と考えるのが常なのだけれども、
他の文章とのつながりを考慮しなくてはいけない。
1つの文ごと考えるのは、もしかしたら非効率かもしれない。

こうして整理するのは、英語を書く際の自信にもなっていいかも。

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Bow

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